「留学、するんだ」 忍成奏一が躊躇いがちにそう言った。 2人しかいない音楽室に、彼の声だけが響く。 いつもの彼からは想像できないくらい、煮え切らない態度である。 それを聞いた各務美紀は、何も言わず静かにまばたきをした。 「コンセルバトワールに行ってくる」 相変わらず何も言わない美紀。 奏一は、椅子に座ったまま美紀が何か言うのを待っていた。 「呼び出した用件ってそれ?」 「うん」 「そうなんだ。・・・おめでとう」 美紀がゆっくりと口を開いた。 まるで自分のことのように嬉しそうな笑顔をみせる美紀。 「ありがとう」 奏一は複雑な思いで感謝の言葉を返した。 長年の付き合いである親友、美紀にちゃんと笑えていたか心配になった。 「コンセルバトワールって、パリの?」 「うん。お前の敬愛するサラサーテと一緒」 「奏一の好きなミシェル・ルグランとも一緒」 「そうだな」 そう言って奏一は美紀が寄りかかっているグランドピアノの屋根を上げた。 一つの汚れもない、ベーゼンの真っ白なピアノ。 「美紀はどこ行くの?」 「このまま上に進学する予定。機会があったら外にも行きたいけどね」 「そっか」 奏一のやわらかいピアノの音が響きだす。 風に揺れるカーテンを目で追って、美紀はそっと目を閉じた。 どんなにヴァイオリンをでたらめに弾いてもちゃーんと合わせてくれる伴奏者なんて、奏一だけだった 男のくせにこんなにかわいい音でピアノ弾く人も、別れがこんなに苦しいのも、きっと奏一だけ 振り回した分だけ振り回された、気が置けない関係 あと少しで、この音ともお別れか 「別にずーっと会えないわけじゃないんだ」 まるで自分の思考を読んでいるかのような奏一の言葉に閉じていた美紀の目がぱっと大きくひらいた。 奏一を振り返って見ると何事も無かったかのようにピアノを引き続けている。 「長期休暇には出来るだけ帰ってくるよ」 「いいよ帰ってこなくて」 不貞腐れたようにそう言って、美紀は座ったまま傍にあるヴァイオリンケースを開けた。 「別に美紀のためだなんて言ってないですー」 「あっそーですかー」 「・・・・・・嘘だよ」 奏一のピアノの音が止まる。 そして、人差し指で一音Aの音を出した。 「何弾く?」 「留学する奏一くんが決めていいですよ?」 そう言って、美紀はペグに手をかける。 「そうだなー・・・」 奏一が細い指をあごに当てて曲を探している間に、美紀は調弦をする。 「・・・・・・よし」 弾きたい曲が決まったらしく奏一は軽く伸びをしてからピアノに向かった。 奏一は美紀と軽くアイコンタクトを取ってから、何も言わずにピアノを弾き始めた。 静かにB♭の音から伴奏が始まる。 美紀は、おぉ、と呟いてヴァイオリンを構えた。 「アヴェ・マリア」 嬉しそうに美紀が呟いた。 その声に、奏一がふわりと微笑んだ。 フランツ・シューベルトの最晩年の歌曲の一つ。 お互いに忘れることはない、初めて2人で弾いた曲。 「覚えてる?」 奏一が美紀の方を向いて言った。 「もちろん。奏一忘れてると思ってた」 「まさか」 その言葉を聞いて、美紀が弾き始めた。 音楽室に響くのは、ピアノとヴァイオリンのやわらかく静かな音だけ。 楽譜4ページ分の曲は、いつもよりゆっくり弾いたはずなのに、やけに短く感じられた。 十分に余韻を残して、そっと終わる。 「やっぱさっきの言葉撤回」 弾き終わってヴァイオリンを肩からおろしたあと、美紀がポツリと言った。 「早く帰って来い」 「え?」 奏一が聞き返すと、美紀は困った顔で答えた 「ご飯おごってくれる人がいなくなる」 「お前人のことを何だと・・・」 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * In HONOR of 333! めちゃくちゃ遅くなってすみませんでした! 書いててすっごい楽しかった 07/09/21